都電の停留場施設・フォトギャラリー



都電の停留場施設について

 ある日の都電荒川線の車内でのこと。電車が王子駅前を発車して併用軌道に入った。初めてこの電車に乗ったらしい乗客の会話が聞こえる。

 「道路の上を走るなんてバスみたいね」
 「よく車とぶつからないね」

 今、東京人にとって、本来の路面電車がどのような存在であったかを想像することさえ、年々難しくなりつつある。そして、路面電車を特徴づける施設の一つである、「安全地帯」とは何か知らない人も増えつつある。

 御存知のように、都電荒川線は王電の買収路線で、都電としては傍系である。そのため、道路中央に設けられた安全地帯がない。東京都内の安全地帯は、昭和47年11月11日限りで江東地区を最後に、都電が事実上の終焉を迎えた時点で、全て消え去ってしまった。

 「安全地帯」を広辞苑で引くと、「災厄に対して安全な地帯。特に、路面電車などの乗降客の危険を防ぐために路上に設けた場所にいう」となっている。今、道路は車のためのもの、というのが当り前になっているが、元来、道は人が歩くための場所であった。道を道路と呼ぶようになったのと、人がそこから追い払われたのとは、呼応しているように思える。安全地帯の登場と消滅は、人が道から排除されてゆく過程でもある。

 私が初めて都電に乗ったのは、昭和50年のことで、その時すでに荒川線だけになっていた。ただ、まだワンマン化前で、全盛時代の都電の施設をそのまま使用していた。だから、本来の都電をこの目で見ることの出来た、最後の世代と言えるのかも知れない。

 今回、都電を形づくるものの一つとしての停留場について、自分なりに調べてみた。ただ、直接自分が見聞き出来なかった部分については、正確さを欠くところがあるかもしれない。都電全盛時代の状況については、私より上の世代の方に、都電の想い出話も交えて、誌上に展開していただければと思っている。

●安全地帯の登場

 明治15年、東京馬車鉄道株式会社によって新橋〜日本橋間にレールの上を走る馬車が誕生した。同社は、東京電車鉄道と改称し、明治36年より電車運転を開始した。しかし、当時の写真を見ても、今日の路面電車に見られる安全地帯らしきものは見当たらず、道路から直接乗り降りしていた。架線柱や電柱に、停留場名をペンキ書きで「電車停留場 師範学校前」等と表示して乗り場を特定していたにすぎなかった。

 いわゆる安全地帯が初めて登場するのは、市営化後の大正年間のことで、大正6年に上野公園の停留場に初めての安全地帯が設置されている。赤い円板に安全地帯と白書した標識が道路上に置かれただけで、道路に白線をひいただけのゾーンであった。また、大正14年12月7日に中央郵便局前に安全地帯試設という記録もある。

 安全地帯設置の目的は、輻輳する交通から乗客の安全を確保することにあるが、そろそろ乗り降りが危険になってきたわけである。路面より1段高くなった本格的な安全地帯が普及するのは、昭和に入ってからである。なお、市電は、都制施行により、昭和18年7月から都電と呼ばれるようになる。

●電車に書かれた表記について

 終戦後、米軍が進駐してきて、車両の前面左側に“PASS STOPPED TROLLEYS AT 5MPH”(停車中追越時速8q以下)と注意書きがなされた。これは、米軍関係車両と都電との接触事故防止のためであった。

 占領体制の終わりとともにこの表示も見られなくなったが、今度は激増する自動車と乗客との接触事故対策のため、「乗降者優先」の文字が書かれるようになった。この表記は、昭53年にワンマン化されるまで見られた。

●停留場の施設

 安全地帯は、コンクリート敷あるいは石畳でできており、車道より1段高くなっている。この石畳を構成する御影石が都電らしさを感じさせるものであった。

 安全地帯の上には、停留場名の書いたポールが1本立っているだけで、他には何もなかった。このポールにはいくつかのタイプがあったが、最も都電を印象づけるのが薄緑色と赤色の電照式のものであろう。停留場名の他に簡単な電車案内と広告が掲出されており、時計つきであった。

 ポールは、必ず電車の進行方向後側に設置されていたが、これは自動車に電停の所在を示すためである。ただ、これだけでは心もとないので、黄色の安全灯やゼブラ模様のパイロンを置いたり、さらには頑丈なコンクリートの障壁を設置して、乗客を自動車から守っていた。傷だらけのコンクリートの防護壁は、自動車の接触・衝突が多かったことを物語っている。

 また、自動車との接触事故を防ぐため、ガードレールがついている所もあった。

 歩道上の架線柱にも、白地に青文字の停留場名が4面表示され(電車案内と広告つき)、その上部には、赤地に白文字の電照式停留場名表示も掲出されていた。

 都電の遺構かどうか分からないが、この4面表示の標識とそっくりなものを、今でも銀座・新橋・虎ノ門・赤坂見附・神田錦町・飯田橋などで見かける。もちろん、レールがないので、これを都電の停留場標識と思う人はいないが、「ここはバス停ではありません」とわざわざ注記してあるのは面白い。

●都電末期の停留場

 年を追う毎に車は増え続け、都電の乗客は狭い安全地帯の上で、傍らを疾走する自動車に怯えながら電車を待つようになる。排気ガスと騒音に囲まれながら、屋根もない電停での電車待ちは、年々不快なものとなっていった。

 安全地帯があればまだよい方で、道幅の狭い所では、乗客の安全よりも車のスムーズな流れが優先され、安全地帯が設けられず、それこそ命懸けで乗降しなければならなかった。 東京オリンピックの頃には、停留場の位置を、交差点の手前から交差点を渡り切った所へ移設するようになった。これは、右折する自動車の支障になるという理由だが、都電が邪魔者扱いされていた証でもある。

●歩道橋直結の都電停留場

 昭和37年8月には、都内初の横断歩道橋が五反田に設置された。その後、昭和40年代のいわゆる交通戦争を背景に、各地に歩道橋がつくられたが、これは主に、学童の通学途上の事故を防止するための、緊急避難的な要素も多分にあった。

 結果的には、自動車社会の進展に伴い、歩行者は道路一つ横切るのにさえ多大な負担を強いられるようになってしまった。幹線道路では、車のスムーズな流れを考慮して、横断歩道や歩道橋は最少限の数しか設置されないから、今や歩行者は非常な不便を強いられている。
 そんな中で、階段を使わずに乗り降りできるという最大の長所を持つ都電の停留場を、歩道橋と直結させる所まで現れた。

 昨今、都電の遺構についての発表を、趣味誌上等で見かけるが、都市施設の一つとしての電停直結歩道橋跡については触れられていないようだ。歩道橋は、都電の直接の付属施設ではないが、そこに都電が走っていた証が今も見られるとなれば、これも遺構の一つと言ってよいのではなかろうか。

 東京オリンピックを契機に、東京が大改造されていった時代に、歩道橋が続々と建設されていったが、ちょうどこの時期が都電が廃止されていった時期と重なるため、電停直結の歩道橋の数は多くない。

 渋谷駅前、上野駅前、亀戸駅前、そして、深川の永代二丁目の停留場が、都電末期の数年間、歩道橋と直結していた所である。

1.渋谷駅前
 東口の現在バスターミナルになっている場所に、都電の1034の各系統が発着していた。ここに歩道橋が架けられたのは昭和43年3月のことである。すでに前年の12月9日限りで、系統は廃止され代替バスに代わっていたが、軌道跡にそのまま乗入れていた。昭和44年10月25日限りで、渋谷駅前から都電の姿は消えたが、現在も、バスターミナルへの連絡路としての昇降用階段は健在である。しかしながら、バスの乗降客を見ていると、そのほとんどが地下鉄銀座線高架脇の横断歩道を利用しており、この歩道橋をバス利用者はあまり使っていないようだ。

★渋谷駅東口では、平成10年から、明治通りの交通円滑化のために大規模な工事が進行中である。これは、従来都電のターミナルをほとんどそのまま転用していたバスターミナルを、東急東横線の線路側へ移設するものである。バスターミナルは明治通りの両方向に挟まれていたが、明治通りとバスターミナルが完全に分離されることになる。平成10年秋から始まった工事により、バスターミナルへ降りる階段は撤去された。また、この工事でバスターミナルから都電の軌条が掘り出された。完成後は、都電時代の面影は完全に消滅することになるだろう。

2.上野駅前
 この電停は、ターミナルの駅前にふさわしい幅広の安全地帯を持つもので、中央通りの2430、昭和通りの21の各系統が集まり、4本の線路が並ぶ様子はヨーロッパの駅前風景を思わせるものがあった。

 ここには、昭和43年4月1日に駅前大歩道橋が架けられ、安全地帯と直結していた。
 昭和44年5月31日には首都高速道路1号線が開通、同年10月25日限りで21系統が廃止され、昭和通りからレールが消えた。

 昭和45年には、首都高速の上野ランプ建設に伴い、Uターン路確保のため、安全地帯が大幅に削られてしまう。

 そして、昭和47年に都心から全ての都電が廃止され、当然のことながら安全地帯もなくなった。歩道橋から安全地帯への昇降用階段も取外された。歩道橋は、平成元年10月に幅の広いペデストリアン・デッキ「ジュエリー・ブリッジ」に生まれ変わったため、今では電停への階段も全く分からなくなってしまった。

 ところで、上野駅前には、昭和2年に、日本初の地下鉄が東京地下鉄道によって上野〜浅草間に開通した時、すでに安全地帯への連絡階段が設けられていた。「東京地下鐵道史・坤」に収載の平面図に見られるように、市電乗り場への2か所(後に1か所)の出入口があった。

 東京地下鉄道では、当時他の各駅でも意匠を凝らしたデザインの出入口が設計されたが、上野駅のそれも、曲線状の屋根を持つモダンなデザインであった。戦後は直線的な機能本意の形に変わったが、昭和42年8月に、首都高速道路1号上野線の工事に支障となるため、出入口上家が撤去されている。

 今、かつて安全地帯だったところは人を容易に寄せつけない中央分離帯となっているが、ここに取り残された地下鉄出入口は、シャッターを閉ざされ、非常用出入口になって今も見られる。

3.亀戸駅前
 昭和45年3月に、京葉道路と明治通りとの交差点に、歩道橋が架けられた。そして、交差点中心から点対称の位置に安全地帯への2か所の昇降用階段が設けられた。ここには、2938の2系統が通っていた。

 もちろん、今は昇降用階段は撤去されているが、歩道橋自体が都電の架線とのクリアランスの関係で、通常のものより少し高くなっている。また、手すりを追加した部分に隙間が見られ、降り口のあった場所が容易に分かる。しかし、ここを行き来する人々からも、都電の記憶は年々消え去りつつあるのだろう。

4.永代二丁目
 28系統が通っていた、この電停は、永代通りと葛西橋通りとの分岐点にあり、電停直結の歩道橋があった。永代通りの交差点西側及び葛西橋通りに架かるL字形の部分が昭和44年3月、永代通りの交差点東側部分が昭和45年1月に設置された。

  この歩道橋はかつての昇降用階段取付けのジョイント部がはっきりと分かり、手すりを溶接した跡も見られる。

この他、現在も残る荒川線の王子駅前電停も、歩道橋と直結している。こちらは、併用軌道上に電停があるわけではないが、昭和44年6月に架かった駅前大歩道橋の階段の一つが、大塚、早稲田方面行のホームにつながっている。

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