ハチ公物語・フォトギャラリー



「ハチ公物語」と東京市電の系統番号

 昭和62年8月に松竹系で公開された「ハチ公物語」は、「映画ビデオイヤーブック '94」(キネマ旬報社)によると、配収22億円で日本映画歴代ベスト50の16位にランクされる大ヒット作である。この映画は、忠犬ハチ(大正12−昭和10)の生涯を、ハチを取り囲む人々のうつろいと共に描き出している。また、大正末期から昭和初期にかけての渋谷駅を描いたものとしても見応えがある。しかし、うっかりしていると、時間軸を念頭に置いた渋谷駅の理解に混乱をもたらすので注意が必要だ。

 まず、渋谷駅の3代目駅舎(昭和5−42)を模している点である。ハチは秋田県大館で生まれ、鉄道小荷物で渋谷(実際は上野)に送られ、東京帝国大学教授の上野英三郎氏に飼われるようになる。毎日渋谷駅まで出迎えていた博士が亡くなるのが大正14年のこと。この頃は渋谷駅はまだ2代目の木造建築で、戦後まで親しまれたコンクリート構造の3代目駅舎が出来たのは、博士が亡くなってから5年後のことなのだ。

 また、駅前を出入りする市電3000形の前面に6・9の系統板がついているが、実はハチのいた時代だけでも系統番号は変遷を重ねており、話は単純ではない。大正後期から昭和初期にかけては、市電の系統番号の変遷が最も激しかった時期であり、渋谷駅に出入りする系統に関しても以下に述べるような変化がある。

 市電は市営化直後の明治44年8月3日に青山七丁目〜中渋谷間の開通によって渋谷に姿を見せていたが、この時の終点中渋谷は山手線の内側であった。山手線のガードをくぐって玉川電車前(現在のハチ公口前)まで乗り入れたのは大正12年3月29日のことである。

 一方、市電に系統番号が誕生したのは、大正3年に上野公園で開かれた大正博覧会がきっかけで、この時は路線毎ではなく、営業所単位の番号が車体側面につけられていた。大正11年の系統改正により、系統番号は経由地とともに長方形の大きなサイドボードに記され、側面に掲出されるようになった。渋谷を起点とするのは22番(中渋谷〜築地〜猿江)、23番(中渋谷〜九段〜上野)、25番(中渋谷〜九段〜万世橋)の3系統となっていたから、これらが玉川電車前に乗り入れた時の系統番号であったと思われる。

 しかし、大正12年9月1日の関東大震災で車両の半数近くを失い、自然消滅的に系統番号表示は行われなくなった。そして、系統番号が復活したのは昭和3年春のことであるが、渋谷駅前に発着したのは14番(渋谷駅〜両国)、15番(渋谷駅〜上野)であった。この時から正面左下に掲出される馴染み深いスタイルになった。

 さらに、昭和6年4月1日に運転系統は大幅に改められ、渋谷に乗り入れるのは9番(渋谷駅前〜築地〜両国)、10番(渋谷駅前〜須田町)となる。ここで9番が初めて渋谷に姿を現わす。この時点での6番は天現寺橋〜京橋間であり、渋谷駅とは関係がない。では、6番が渋谷に姿を現すのはいつからだろうか。「東京・市電と街並み」(林 順信編・小学館)所収の昭和11年10月改正の系統図では、6番はゑびす〜古川橋〜金杉橋となっている。「わが街わが都電」(東京都交通局編)所収の昭和15年5月1日現在の系統図では、6番は渋谷駅〜霞町〜三原橋との記載がある。また、同書の高松吉太郎氏の写真において、昭和13年頃の工事中の玉電ビルの前に発着する市電が6番と10番をつけていることから見て、昭和11〜13年の間の系統改正で6番が渋谷駅に発着するようになったことがわかる(後の調べで、6番と渋谷との関わりは昭和12年4月1日からと判明(「銀座文化研究3」(銀座文化史学会編)所収の井口悦男氏の論文「東京市電 戦時中の運転系統番号とその路線・上(昭和6〜12)」による))。結論としては、6番に関してはハチのいた時代とは時代的に合わず、9番にしてもハチの 晩年4年間ほどしか重ならない。

 全体的にみて、「ハチ公物語」の時代考証はハチの生きた時代と一部重なりはするが、やや現代寄りにズレていることになる。最も、だからといって私はそのことを責めるつもりはない。作品が現実を必ずしも忠実に再現しなければならないものでもないし、逆にそうでない方がよい場合もあるからである。作品の中では、ハチとその背景となる渋谷駅は変わらずに存在し続ける。一方、ハチに関わっている人間たちはうつろい変わりゆく。そのコントラストが重要な意味を持つと考えられるからである。ここで、事実に忠実にこだわると、観客が混乱を来たす恐れがある。市電の系統番号や駅舎の変遷を忠実に表わすことは、作品中で大した意味をなさないので捨象したのであろう。ハチが生きた時代、それは現代では失われてしまった、いわば古きよき時代である。それを鮮やかに描き出したところに、この作品の意義がある。


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