城東・都電・夢語り〜墨東の買収電車〜

  都電が荒川線だけを残してなくなってから、今年でもう25年になる。昭和47年の江東地区の都電廃止は、事実上の都電の終焉であった。現在、都電と言えば荒川線のことを指すが、今日の荒川線は、都電全盛時代からみると、かなり異なった乗物であると思う。私にとって、下町の都電は、もう少しで手が届きそうで届かない存在であった。都電が江東地区から消えた頃、私は小学校3年生だった。当時、学校の長期休暇には交通博物館へよく出かけていた。その行き帰りに、秋葉原駅付近で都電の軌道を眺めた記憶がある。ただし、日曜日で歩行者天国となっていて、都電は走っていなかった。あるいは、総武線の車窓から都電を見たような気もする。また、社会科見学で「船の科学館」へ行った際、貸切りバスが都電のレールに沿って走っていた。多分、月島あたりだったはずだ。しかし、一度も乗車することは出来ずに、下町の都電は消え去ってしまった。

 当時、営団地下鉄発行の「地下鉄のはなし」というパンフレットが、小学校で配られていた。その中で、地下鉄路線図のベースとなっている地形図には、すでに廃止になったはずの江東地区の都電がまだ載っていた。私は、地下鉄路線図よりも、その都電の路線が薄く描かれた地形図に興味を覚えた。

 それから都電のことをいろいろ調べた。けれども、その頃、都電の資料は限られており、図書館で「都電60年の生涯」や「東京都交通局年の生涯」や「東京都交通局60年史」(どちらも東京都交通局発行)を目にする位であった。後者は小学生にはとても難しくて読めず、また「都電60年の生涯」に載っていた系統図を見ていても、柳島や神明町とは一体どこにあるのか見当もつかなかった。まだ、自らの行動半径が狭く、行ったことのない場所に対する土地カンもなかった。

 江東地区の路線の一部は、城東電気軌道からの買収路線である。詳しく知りたいと思い、交通局の基本資料である年史に当たってみた。しかし、交通局の年史は、電気局〜交通局という組織の中での出来事を基準に記述がなされているため、いわゆる買収私鉄線については、ほとんど触れられていない。城東電車にスポットを当ててみようと思った訳は、ここにある。

城東電車のプロフィール
 城東電気軌道株式会社は、大正2年10月20日に設立された。大正6年12月30日に、錦糸町〜小松川間 3.2qが開業(以下、本稿では小松川線と呼ぶ)。大正10年1月1日には、分岐線(以下、本稿では洲崎線と呼ぶ)として水神森〜大島間、大正13年7月11日に大島〜稲荷前間が開通。大正14年12月31日には、荒川放水路(現・荒川)の対岸、東荒川〜今井間(以下、本稿では江戸川線または今井線と呼ぶ)が開業。放水路に阻まれて乗り継ぎが不便だったため、大正15年3月1日に小松川線の小松川〜西荒川間を延長開業して、東荒川との間に連絡バスを走らせた。また、昭和4年5月7日には、稲荷前〜洲崎間を延長し、市電と接続した(東陽公園前〜洲崎間は市電と路線を共用)。

 開業時の車両は、市電からの譲受けのヨト(東京電車鉄道から引き継ぎの四輪単車)を使っていた。「わが街わが都電」(東京都交通局)に所収の車両諸元表を見ると、城東から東京市へ引き継がれた車両に関してのみ情報が得られる。その形式及び番号を観察すると、城東が保有した全ての車両が引き継がれたのではないことが分かる。

 東京市引き継ぎ後の形式が1形となった車両が元城東の14形という形式であることから考えて、おそらく城東にも1形bP〜13の車両があり、これが市電から譲渡されたヨトではないだろうか。そして、これが開業当時使用していた車両なのではなかろうか。なぜなら、一番最初から14形という形式をつけることは通常考えられないからである。

 昭和12年3月25日、城東電気軌道は東京乗合自動車に合併され、さらに同社は翌年4月25日に東京地下鉄道に合併された。そして昭和17年2月1日には、陸上交通事業調整法により東京市に買収された。東京市は昭和18年7月1日の都制施行により、東京都となり、東京市電気局から東京都交通局へ改称された。

 昭和20年3月10日には、下町大空襲により、路線や車輌に大きな被害を受けた。比較的被害の少なかった山手の青山車庫へ車輌を疎開させたが、5月25日の山手大空襲で、旧城東の引き継ぎ車はそのほとんどを焼失してしまった。ここに、事実上城東電車は消滅してしまった。 戦後は、都電の路線と一体的に運営され、小松川線は25系統、洲崎線は29,38系統の電車が走った。また、「川向こうの電車」こと江戸川線は26系統となった。江戸川線は、戦後においても近代化から取り残され、4輪単車の400形4両によって運行されていたが、昭和27年5月19日限りで廃止され、翌日から都内初のトロリーバス101系統上野公園〜今井間に置き替わった。しかし、これも昭和43年9月28日限りで廃止された。開通から廃止までわずか16年の命だった。放水路以西の旧城東線は、錦糸堀車庫の管轄で運行されていたが、昭和43年9月28日限りで水神森〜西荒川間が、昭和47年11月11日限りで残りの区間も廃止された。
城東線関連年表を参照のこと)

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 荒川線が王子電気軌道からの引き継ぎ路線であることは知られているが、その他にも市電には東横電鉄、西武軌道線からの統合路線もあった。また、都電が廃止された頃、「住居表示に関する法律」によって、各地の由緒ある歴史的な町名が消えていった。これによって、過去とのつながりが断ち切られたため、歴史を振りかえる際に非常な不便が生じている。文学作品などに出てくる地名を想起することが難しくなってしまったのである。明治以降の時代の転機として、大正12年の関東大震災、昭和20年の敗戦が挙げられるが、これに、私は昭和39年の東京オリンピックの頃から始まる地名の改廃も加えたい。戦後の高度経済成長は、過去を否定し、捨て去ってきた歴史でもある。過去と現在のつながりを調べる郷土歴史家にとってこれは重大な問題である。地名を大事にしないことは、郷土史に関心を持つ人間を育てる上で大きな障害になる。自治体は、せめて、住居表示実施前の地番を記した地図や、現在の住居表示との新旧対照表を発行すべきであると思う。

 今、都電といえば荒川線のことを指すが、荒川線は王子電気軌道の買収路線であり、元は私鉄線であった。そういう意味で言えば、東京市電〜都電の系譜の上ではいわば傍流である。昨年(平成8年)、交通局は前身である東京市電気局から数えて85周年になった。これは、明治44 年8月の電車事業市営化をその起算点にしている。しかし、東京の路面電車の歴史という観点からみると、明治36年の3社による電車運転開始、そして遡れば、明治15年の鉄道馬車開通にまで行き着く。交通史的な立場からみれば、経営組織の人為的な改変よりもむしろ、ある種の技術的な交通手段の登場を基準としてものごとを考えた方がよいように思う。昨年、交通局では85周年を記念して荒川線で装飾電車を走らせたが、元王電の傍流である荒川線だけが残ったのも何か皮肉な気がする。王電の開通は明治44年8月20日であり、東京市が3社の路面電車を買収した明治44年8月1日とは年月まで偶然に一致している。だからといって、85周年を記念して荒川線で装飾電車を走らせると、何か、東京の路面電車が誕生してからの路線のように受け止められる誤解の恐れがある。

 平成元年のゴールデンウィークに、錦糸町の西武デパートで、「乗りものグラフィティ展」という催しものがひらかれた。江東地区の都電の要衝の地であった錦糸町で、この催しがひらかれた意義は大きい。

城東〜東京市引継車輌一覧 城東線関連年表 城東・都電・夢語り(2)


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