
初秋のべにばな紀行・フォトギャラリー
初秋のべにばな紀行
かつて山形県内には、山形交通高畠・三山・尾花沢の各線、庄内交通湯野浜線という私鉄路線があった。これらの路線は昭和40年代から順次廃止され、昭和50年3月の庄内交通湯野浜線の廃止をもって、県内の私鉄は全て消滅した(その後、昭和63年にJR長井線を転換した第3セクターの山形鉄道フラワー長井線が開業したが、これは純然たる私鉄とは言いかねる)。地方私鉄が好きな私にとっては大変残念なことであるが、せめてその跡をたどり、多少なりとも当時の様子を想像できればと思い、今回の旅を計画した。
- ●山形交通高畠線の廃線跡を訪ねて
“べにばなの山形路”観光キャンペーン開催で、今最も注目されているハートランド山形。 1992年7月1日に開業した山形新幹線に乗って山形交通高畠線の廃線跡を訪ねた(1992年8月21日)。最新形の新幹線で過去の探訪をするちょっとミスマッチングな旅である。
高畠へは“つばさ”に乗って行きたいが、高畠には1日4往復しか停車しないので注意が必要だ。高畠駅に着いたら早速廃線跡をたどることにするが、今回は徒歩ではなくレンタサイクルを利用する。レンタサイクルは山形キャンペーンの一環として高畠町が設置したもので、11月3日までの期間限定となっている。
さて、駅事務所でレンタサイクル(1日1回500円)を借り、観光案内マップをもらったら出発するが、その前に高畠駅についてちょっと記しておきたい。高畠駅の駅舎は木造の古風なものであるが、現在の駅舎の反対側に太陽館というコミュニティーホールと一体となった新しい駅舎を新築中であり、すでに乗車券の発売は新駅舎内で行われている。この太陽館側の駅前広場は現在造成中で、これらが完成した際には駅の表玄関が反対側に移ることとなろう。 太陽館側へ連絡橋で渡ると、旧山形交通高畠線の廃線跡“まほろばの緑道”が始まる。駅前は工事中で走りにくいが、すぐに舗装路に変わる。道の両側には桜の木が並んでおり、春はさぞ美しいだろうと思う。緑道はやがて奥羽本線から離れる。サイクリングロードとして整備されているため当然のことながら線路などの痕跡はみられないが、周囲の風景はおそらく当時から変わっていないようだ。水田や畑の中の築堤の上をのんびりと走っていると、ここに電車が走っていた頃の様子が想像できるようだ。
20分ほど走り、屋代小学校を過ぎたところにプラットホームの跡がある。島式のホームがサイクリングの休憩所として残り、すぐ横には山交バスの“屋代農協前”バス停がある。“まほろばの緑道・竹森広場”という立札からみておそらくここが竹ノ森駅跡と考えてよいだろう。
さらに緑道を10分ほど進み、国道 399号線を横断すると、山形交通旧高畠駅が見えてくる。石造りの立派な駅舎が現在は山交バス高畠待合所として使われている。出札所や改札口は往時の姿をとどめ、金額の消された運賃表もあった。ここに人が集い、電車を待っていた頃の姿そのままがここにある。電車の発車時刻が近づくと、駅員が改札口の鎖を外し、きっぷにはさみを入れる…。そのはさみの音の響きさえよみがえってくるようだ。
駅構内は貨物取扱いも行っていただけにかなり広く、芝生の植えられた整った広場になっている。その片隅に相対式ホームと2線の線路、そして保存車両、モハ1+ワム201+ED1の3両が連結されて置かれている。車両の状態の方はあまりよいとは言えず、塗装がかなり色褪せていたり、ガラスの割れているところもあり、テールライトは壊れていた。車内にもスプレーによる落書きがあり、南京錠が掛かっていた。いつも思うのだが、機関車と比べて特に半鋼製の電車は痛みが早く、せっかく保存されても結局スクラップになってしまうことが多い。せっかく保存するならば、もっと管理の徹底した状態に置いてほしい。
さらにその先に緑道は続く。屋代川を渡る区間で、水害により一足先に廃線となったところである。緑道が屋代川を渡る橋は“まほろば大橋”とあり、高畠線のものではなく、緑道整備で新しく架けられたものである。緑道はやがて国道113号線に合流する。蛭沢湖方面にサイクリングを続けることもできるが、高畠線の終点、二井宿とは方角が違い、廃線跡をたどれるわけではない。どうやら高畠線の廃線敷はここから国道の拡幅用地になってしまったようだ。
初出 鉄道友の会機関誌”RAIL FAN”1992年○月号
- ●山形駅で現役スイッチャーを発見!
、この後、山形〜仙台と回ってきたが、山形駅で40分ほどの余裕があったので、構内に出入りする車両をウォッチングしていた。“つばさ”の400系に始まり、“こまくさ”の 485系、“仙山”の 455系、“月山”のキハ58、その他DCは急行色、東北地域本社色、左沢線カラー、はてはED78、DE10、50系PCにマヤ34と、まさに百花繚乱の車両たちを見ることができた。
そんなカラフルな車両の間で、車体は小さいながらも一人前に排気を吹き上げ、けたたましい音を出して行ったり来たりしていた入換動車を見つけた。貨物輸送や専用線の衰退で、かつては当り前のように見られたこんな光景も、今やめずらしいものとなりつつある。私は、久しぶりにスイッチャーが動いているのを目の当りにして、すっかり感激してしまった。
初出:鉄道友の会東京支部日曜サークル機関誌「休日運転」bP59(93.4.11)
- ●鶴岡で善宝寺鉄道記念館を見学
92年(平成4年)9月5日(土)、青春18きっぷを手に、新宿23時02分発村上行の快速ムーンライトに乗った。この列車は指定券がなかなか取れない。そのくせ、実際に乗ってみると空席が結構あったりする。これは、普通乗車券や青春18きっぷで乗ることができ、指定券が500円(閑散期は 300円)と安いため、あらかじめ指定券を押えた上で、不要になっても払戻さない人が多いためと思われる。また、一人で指定券だけを2〜4枚買い、座席をゆったり使う人もいるそうだ。このような人がいるため、乗車したくてもできないことがままある。乗車券を呈示するか同時に購入する場合に限って指定券を売る、等の対策をとってもらいたいところである。本来なら座席数をもっと増やすべきだが、どうやらJR東日本では、高速バスの対抗上生まれたこの安売り列車は儲からないため、あまり積極的に利用拡大を図るつもりはないようだ。かと言って人気列車のため廃止することもできず、結果として現状の姿になっているように思える。
今までは、乗ればいつも隣席は空いていたムーンライトだったが、本日は満席状態である。高崎を過ぎると車内が減光され、直流急行形電車のモーター音を聴きながら、いつしか眠りに落ちていった。
目が覚めると、鉄道の町新津の鉄道資料館が左手に見えたところだった。新潟で向きを変えたムーンライトは、白新線に入り、終点村上に向けて新潟平野を一路ひた走る。窓の外には田んぼの緑が美しい。車窓の眺めは人工の建造物よりも、みどりの方が心安らぐ。線路を自然災害から守る施設に鉄道防風林や鉄道防雪林があるが、自然災害に同じく自然をもって対処するというのは、実に理にかなったことだと思う。
ところで、車窓の風景は美しいが、送電鉄柱と送電線、電柱や通信ケーブルが何とも目障りである。日本ではどんなに田舎に行っても、どんな山の上でも、こういった目障りな電線・鉄柱類から逃れることはできない。最近、JR各社は、ハイデッカーやダブルデッカーの新型車両を続々と登場させているが、車窓からの眺望がよくなった分、今まで目線の上にあった通信ケーブルがちょうど目の高さで車窓を遮ることが少なくない。車窓のビューをセールスポイントとするならば、こういったことにも気を使ってほしい。
村上からは 827レ酒田行で鶴岡へ向かう。EF81+50系客車5輌編成であった。桑川付近の笹川流れを見ながら、再び、車窓の眺望について考えた。羽越本線に沿って、日本海夕陽ラインという高速道路の建設が予定されている。いかにも日本海の景観を売物にしているような名称のこの道路が、羽越本線の美しい車窓を損なうとしたら、トワイライトEXP.も商売にならなくなってしまうだろう。現に、北陸本線親不知付近の景観が海側に建設された北陸自動車道によって、台無しになった悪例がある。今、高速道路は大都市圏からの放射線がほぼ完成し、枝線的な横断道の建設が進んでいる。日本の山がちの地形を考えると、新しく道路を作ろうとしても、地形の制約上鉄道と並行する部分が多くなると思われる。眺望を権利とまでは言わずとも、これからの道路建設には、鉄道の美しい車窓風景を失わずに済むような配慮が求められるのではなかろうか。
7時55分、鶴岡に到着した。目指す善宝寺鉄道記念館は、ここから湯野浜温泉行の庄内交通バスで約30分の所にある。次のバスは9時02分の発車である。その間、鶴岡庄交モール(庄内交通のバスターミナル)を見に行ったり、駅周辺を歩いてみた。駅は市街地のはずれに位置し、駅前には特に見るべきものもなく、何となく拍子抜けであった。バスの時間が近づいたので、駅に戻った。
定時に発車したバスは、かつての湯野浜線とは全く異なるルートを走った。すなわち、一旦駅南側の市街地に立寄って鶴岡公園の脇を過ぎ、それから羽越本線をオーバークロスする。水田の中を湯野浜線は築堤で貫いていたはずだが、車窓からは全く判別できなかった。
善宝寺鉄道記念館は善宝寺バス停のすぐ脇にあり、かつての庄内交通湯野浜線善宝寺駅をそのまま利用している。湯野浜線は、鶴岡と湯野浜温泉の間12.2qを結ぶ、600V電化の路線であった。対向式プラットホームの片側に停車するような形で、モハ3という路面電車のような小さな車両が置かれていた。
館内には湯野浜線をはじめ、県内の鉄道の歴史に関するパネルや鉄道部品、模型などが展示されていた。昭和30年代より急速に進行したモータリゼーションの波間に、全国のローカル私鉄が過去帳入りしたが、このような形で過去を忍ぶことのできる博物館的施設があることは、大変に有難いことだと思う。消えた鉄道の中には保存車両さえ1両もなく、廃線跡の痕跡すら全く残っておらず、もう誰からも思い出されることのない鉄道も一つや二つではないからである。
記念館を辞して、前後に線路跡が残っていないか、探してみた。廃線敷の湯野浜温泉方は駐車場に変わり、鶴岡方は畑の中に線路跡らしきものが確認できたが、道路とぶつかった先はもう判別できなかった。廃線敷は道路化されたのかも知れない。
- ●高速バス+左沢線で山形へ
バスで引返す途中、致道博物館前で下車し、昼食をとり、市内の観光スポットをいくつか見学した。これから今夜の宿泊地山形へ向かうが、陸羽西線を使って余目、新庄を経由していくと、四角形の3辺を通ることになり、かつ接続があまりよくない。そこで山形行の高速バスに乗ることにする。鶴岡庄交モール14時20分発の庄交バスで、国道112号線を走ることから 112急行バスと名づけられている。エアサスの効いた快適な乗り心地で、しかも運のいいことに左側最前列に陣取ることができた。
鶴岡の市街地を抜け出したバスは少しずつ高度を上げ、霧深い月山の山越えにさしかかる。一般道を走るバスでありながら、この車窓の眺めは圧巻と言うべきであろう。ここにも高速道路が現在建設中で、完成の暁には当然このバスも高速経由となろう。その際はまた違った眺望となるだろうが、おそらく長大なトンネルが連続すると思われるので、一般道経由で走る今の内に乗車されるとよいだろう。
月山トンネルを抜けると標高が次第に下がり、やがて寒河江ダムの雄大な姿が右手に見える。間沢開発センターを過ぎると、右手の水田の中に低い築堤の跡が確認できた。これが左沢線の羽前高松と間沢の間11.4qを結んでいた山形交通三山線の廃線跡である。こちらも600Vの電化路線で、昭和49年11月に、高畠線とともに廃線となっている。
高松駅角でバスを降りると、時間は16時を回っていた。羽前高松駅へは5分ほどで着いたが、駅前には商店が集まっているわけでもなく、突然駅舎が目の前に現れたという感じである。ここから三山線が発着していた当時の面影はないかと探したが、ホームや線路の跡は残っていなかった。このまま山形へまっすぐ向かうつもりだったが、時刻表によると次の山形行350Dは16時26分発左沢行 347Dの折返しなので、左沢まで行って戻ることにした。
左沢線は羽前高松で大きく線路の向きを変える「なべづる線」となっている。これは、左沢線建設当時の貴族院議員工藤八之助の力によって、路線が迂回させられたためだ。また、左沢から旧長井線の荒砥を結ぶ、左荒線構想というのもあった。夢の内陸循環線は、昭和初期の経済恐慌、日華事変、そして戦後の交通体系の変革により、ついに実現されないまま今日に至っている。左沢では6分の折返し時間に、急いで駅舎を撮影し、記念スタンプを押して列車に乗込んだ。遠くに山形の市街を望みながら、単行ディーゼルカーは水田や果樹の畑の中をゆっくりと進んでいった。
- ●山形交通尾花沢線の廃線跡を歩く
一夜明けて9月7日(月)、7時起床。今日は、山形交通尾花沢線の廃線跡探検を主体に、乗り歩きする予定である。まずは山形駅から200mほどのところにある山交バス山形ターミナルに発着するバスを見に行った。昨日乗った庄内交通と山形交通は、それぞれエリアを異にしているが、どちらも駅から少し離れた場所に自社のバスターミナルを持つという共通点がある。
山形8時21分発の快速月山1号(※快速「月山」は99年3月11日限りで運転終了)で新庄へ向かう。この列車は、平成4年7月の山形新幹線開業を期に急行から格下げされ、青春18きっぷで乗車できるようになった。編成は、キハ58 266+キハ28 2380の2連で、前寄り2号車が自由席、後寄り1号車が指定席となっている。車内を見渡すと、自由席はほぼ満席なのに対して、指定席にはわずか数人しか乗っていない。もちろん指定券が必要なためであるが、たった2両編成の前が満員、後ろがガラガラというのは妙に不自然だ。
私は指定券を買っても空いている方がよいので、1号車に座り、車掌から指定券(閑散期で300円)を求めた。北山形で昨日乗った左沢線が左に分かれ、羽前千歳で仙山線が右に離れていくと、やがて車窓に水田が広がった。私の好きな歌にさだまさしの「案山子」があるが、この歌が描いている日本の故郷の原風景とでも言うべきものを、この車窓に見たような気がする。
架線下のDCは快走を続ける。奥羽本線の主要駅は、軒並み山形べにばな国体の開催や山形新幹線開業に合わせて、駅舎のリニューアルが進んでいる。だから、改装の対象とならなかった駅との落差が大きい。こういった博覧会等のイベントの開催を契機として、地域の開発が集中的に行われるのが常だが、何かそこに違和感のようなものを感じるのは私だけであろうか。一過性のイベントのために建設された施設は、デザインは人目を引くように斬新だが、使いづらかったりすることが多い。芦沢からは山越えの様相を見せ始め、山形からちょうど1時間で新庄に着いた。
10時15分発山形行の高速バスで尾花沢を目指す。くたびれた観光バスで、昨日月山を越えたバスからみると、かなりグレードが落ちる。奥羽本線を横目に見ながら、国道はしだいに線路から離れていった。沿線の自治体が立てた道路整備を望む看板が目につき、車が移動の主役になったことを思い知らされる。尾花沢市内に入り、芭蕉・清風歴史資料館が右に過ぎて、10時55分、尾花沢待合所に到着した。
このあたりは雪深い所として知られる。「雪とスイカと花笠踊りのふるさと」と書かれたノボリが各所に見られた。雪に閉ざされるこの地にあって、東京と高速バスで直結していることは何ごとにも代え難い安心感があるだろう。待合所に隣接するバスの車庫があるあたりは、山形交通尾花沢線の尾花沢駅があったところである。尾花沢線は、奥羽本線の大石田と尾花沢の間2.6qを結んでいた路線で、山形交通の3線の中で唯一最後まで非電化であった。また、DLによる客貨車牽引であったのも特徴である。国鉄のルートからそれた町と国鉄の最寄り駅とを結ぶ目的でつくられたこの路線も、車が普及すると存在意義を失い、昭和45年9月に消えていった。
バス車庫の周りを半周して反対側に行ってみる。ゆるやかな曲線を描いている道路があり、これが廃線跡なのだろう。早速歩き出すと、廃線敷を利用した交通公園があった。誰もいない公園はひっそりと静まりかえっている。どんどん歩いていくと、廃線敷は幅の広い国道13号線と交差する。車の流れがとぎれるのを辛抱強く待って道路を渡ると、廃線敷は林に沿って延びている。傍らに捨てられたスイカをカラスが突ついていた。だんだん雑草が高くなり、歩くのも困難になってきた。再び道路と斜めに交差した先は、一面の水田の中に築堤が続いていた。このあたりで探検を打切り、ちょうどやってきたバスで尾花沢待合所に戻った。
昼食をとった後、山交バスで大石田駅へ向かった。バスは先ほどの廃線敷と交差し、水田の中を進む。踏切を渡り、大石田ではかつて尾花沢線のホームがあったのとは反対側に着いた。連絡地下道で線路の反対側に出ると、かつてのホーム跡は駐車場に変わり、ゆるやかな曲線を描く砂利道が延びていた。尾花沢周辺で歩いた廃線敷の延長線が、ここにつながっているはずだ。大石田からは、14時23分発の1432レで山形へ向かった。この客車列車もじきに電車化されることになっている。
廃線跡歩きは例えて言うならば、御先祖様の墓参りにも似たようなところがある。使命を終えて廃止された鉄道も、建設された経緯を調べると興味深いものがあり、その果たしてきた役割は忘れてはならないと思う。それぞれの地域で走るローカル鉄道が例え廃止されても、後年まで、そこに鉄道があったことを伝え続けてほしい。
(1993-10-10記)初出:鉄道友の会東京支部日曜サークル機関誌「休日運転」bP67(93.12.19)
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